西田のノート

発狂後の世界を生きています

複数の我

多田富雄鶴見和子『邂逅』で鶴見さんが“南方熊楠は、自我は「単我」ではなく、複数の我の集合であると書いています”(p.182)と言っていて南方熊楠に興味を持ち、水木しげる『猫楠』を読んだ。第4話で熊楠さんはこう言っている。

熊楠「わしは思うんじゃが、人の心は1つではない。3つ4つ集まってできたもんだ」
猫楠「それはまたどういうことだ」
熊楠「いやわいは心の中で心が心に伝達するさまを体験しとるのじゃ。このいくつかの心は常に変化しつつ複合しちょる。即ち3つ4つある」
猫楠「それは頭の中にだな…」
熊楠「人の死後、心の複合体はすべて消滅するわけではなく、多少残存する。そのいくらかの部分は永遠に宇宙にとどまる」
猫楠「3つ4つのうち1つは残るわけか」
熊楠「そうだ」
猫楠「するとあとの3つはどうなるんだ」
熊楠「墓とか次元の異なる世界とか家とかにとどまるようだナ」
猫楠「じゃあ霊みたいなものだ」
熊楠「そう、人間はあらかじめ脳に霊を3つ4つ飼ってるかもしらん」

これは熊楠さんの言葉と水木さんの言葉が合わさったものだと思われるが、私の感じていることに近い。霊に関しては信じると病気が悪化するので信じない様にしているが、心が一つではない感じは昔からあって、ずっと消えない。そういえば水木さんも書く/描く自分と話す自分が別人で困るみたいなことどこかで書いていた気がするのだけれど、出典が思い出せない(売ってしまった! 馬鹿!)。
また、心の一部が宇宙に留まるというのは私が発狂した時に幻聴から言われたことと重なる。でも深く考えるとやっぱり病気が悪化しそうだから考えない。
この漫画読んでから暫く頭の中で「チンポコ! チンポコ!」と言われる様になり、ちょっと困った。脳内汚言症。